「ニューズウィーク日本版・世界が尊敬する日本人100人 2009年版」の一人である
高木正勝については何度か紹介させて頂きました。

今度は2007年版のニューズウィーク日本版・世界が尊敬する日本人100人に選ばれた
指揮者・柳澤寿男
※もちろん今回初めて知りました。

2009年に放映された

これの続編が今年放映され、先日再放送されてました。
分断された音楽の架け橋指揮者柳澤寿男 1530日の闘い
http://www.bs-j.co.jp/kakehashi2/

そこで彼が「クラシックは理屈の音楽だ。全ての音は考えぬかれており意味がある。無駄な音は一つもない」みたいなことを言っておりました。※この通りの発言ではありません。

 無駄という概念は目的があって初めて生じる概念です。
その目的に合致しないものを無駄と呼びます。
目的がない所に無駄はありません。
「意味がある」といった場合、「◯◯のため」というものがどうしても伴います。

一回でいい、作曲家にその全てを解説して欲しい。
それができれば芸術なんていらないって?
だとするとそれはそれで、全てが考え抜かれているというのとは矛盾してしまう。
それに記号で解説できることと、それを芸術作品にすることに矛盾は生じないと思うし、
芸術作品を本人が解説することに、意味が無いとも思わない。

これは何も音楽だけの話ではない。
何かを作る人は、常にそれら一つ一つのパーツに意味を考えざるを得ない。
作家もそうだし、プロダクトデザインなんかもそう。建築家もそう。
記号化できる創作物に関してはそうならざるを得ない。
記号化というのは文章や譜面や図面にできるということ。

僕は建築を少しだけ学んだことがあるのだが、どうしてもそれができなかった。
なぜこれを作らねばならないのか?なぜこのような形態及び空間にせねばならないのか?
そもそも目的はなんなのか?それが分からなかった。

ちなみに建築は海外では芸術系の一分野に位置されることが多い。
日本では理工系に分類されることが多いけど。
そして藝大の建築科なんかでも、いや藝大だからこそ、
あらゆる造形及び空間に対して、一つ一つ「なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?」は追求されまくり、それらに言語で論理的に答えねばならない。

実際の所、多くの建築は一つ一つに大した意味はなく、なんとなくで作られてると思う。
でもそれもできなかった。そっちの方が逆に難しかった。

今まで聴くだけの音楽だったのが、自分でも演奏してみようと少しは思い
ヴァイオリンをやりはじめた。演奏が上手くなりたいというのはもちろん思うけど
下手をすると、それ以上に音楽のことをもっと知りたいという欲求の方が強いのかもしれない。
その手段の一つとして、演奏してみるという方法を取りたかったのかもしれない。


彼が率いる
・バルカン室内管弦楽団
・コソボフィルハーモニー交響楽団
って日本で頻繁に演奏してるんですね。
http://www.bs-j.co.jp/kakehashi2/info.html 

てか
 日時   2012年10月6日(土)15:00
 会場   武蔵野市民文化会館 大ホール(東京都武蔵野市)
 出演   [司会] 辰巳琢郎
 [管弦楽] バルカン室内管弦楽団
 東京シティフィルハーモニック管弦楽団(協力) 

照沼愛子さんじゃないか!!出るか知らないけど。。。
 

Kosovo Philharmonic Orchestra / Toshio YANAGISAWA, conductor
 
 
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